天目の発祥地、中国の天目山は古来より茶の名産地として知られたところで、抹茶の流行した宋代には、抹茶用の茶碗として、新たに生まれた建窯で作られたものが従来の青磁に代わって使われるようになり、天目山の禅僧達の間でも盛んに使われました。
中国南宋時代(1127~1279)建窯の天目山より日本の禅僧が天目茶碗を持ち帰りました。抹茶を初めて宗からもたらしたのも、栄西禅師である事からも、「茶の湯」と「禅」の精神の深い関わりが伺えます。
喫茶の習慣は特に禅僧の僧院において礼法の一つとして定着し、独自の発展を見せてまいりました。室町の茶の湯では、茶入れといえば唐物、茶碗といえば天目でした。その古い伝統から天目は後の世にも特に貴ばれ、格段の扱いを受け、神仏前の献茶や貴人点(きにんだて)にも愛用されてきました。
南宗が滅びた後の中国での生産は不可能になり日本での再現も元々不可能であった為、希少価値は増々高まりました。
名品は我国に多く国宝の燿変天目茶碗(銘・稲葉)静嘉堂文庫美術館を初め京都国立博物館、大阪市立東洋陶磁美術館、龍光院、徳川美術館、永青文庫、根津美術館、MOA美術館、五島美術館等が宋元時代の数々を所蔵し天目の宝庫として世界陶磁史に誇る重要な位置付けをしています。海外ではイギリスの大英博物館やヴィクトリア・アンド・アルバート博物館、ニューヨークのメトロポリタン美術館をはじめとし、ワシントンのフリア美術館、カナダのトロント美術館、クリーベランド美術館、ボストン美術館や、ミシガン大学の東洋美術史研究室、オックスフォード大学等に所蔵されています。
Victoria and Albert Museum所蔵
油滴天目とは、中国の宋時代に多く建窯でできた鉄質黒釉です。顔料に硬化鉄と酸化クロムなどを混合した黒釉とは異なり、天目は酸化鉄だけを顔料として加えたもので、焼成後に縁先が飴色、柿色、または鉄砂色に変化します。
高性能の窯が無かった時代には、油滴天目の作品を作ることは、技術的にも環境的にも非常に難しいとされていました。
しかし、今では、油滴天目に関する科学的な研究結果も広く発表されるようになり、火度の微妙な制御を出来る窯の開発も進み、油滴斑を出すだけの技術や環境は整いつつあります。
しかし、黒い天目釉の地の色の深さと光沢、銀斑の輝きの強さ、色、散り具合、流れ具合、釉の表面から反射する光の色と、それぞれを良くしようとすると、互いに相反する奥深い課題を持っているのが、この油滴天目なのです。
西暦2000年に石垣島でも天目茶碗が発見されています(八重山毎日新聞)。以前浦添美術館で八重山焼の古陶展をやっていました。
その時に初めて八重山焼を見てビックリしたと金子氏は言います。
「その作風を見るに小石原焼(福岡県)、小鹿焼(大分県)に見られる技法、飛び鉋(とびがんな)など他の窯業地では見られない特徴が見られた事でした。
これもまさしく秘伝であり、最近になっても技術を門外不出としている窯業地で有名ですが、当時かなり親密な技術交流が薩摩を通して九州北部と琉球・八重山地域とあった事が伺える」
さらに、「私はこの事実を見て、私が今沖縄県の石垣島で天目茶碗を作っているのは材料が取れる事からも、単なる偶然ではないような気がしてなりません」と金子氏は振返ります。