石垣焼の作品

陶器とガラスの融合の発祥の地

石垣焼はよろん焼から技術の暖簾分けをしてできました。
よろん焼とは1970年に福岡県・小石原焼の支援の元、鹿児島県の与論島で金子晴彦の父、
金子喜八郎(陶芸家の氏名・恭雨、以下恭雨と呼ぶ)によって誕生しました窯元です。
恭雨(写真家のペンネーム;清美)は写真家でもあり、リアルズムの大家とも言われる土門拳の弟子で、
作品集「古寺巡礼」など撮影のアシスタントをするなど、京都に滞在する機会がありました。
そんな折、運命の天目茶碗との出会があったそうです。
恭雨はいつしかその茶碗を作ってみたいと思い、
よく撮影で行っていた当時日本の最南端だった与論島に窯元を作る事にしました。

窯元の準備の為、小さな窯での試作をしておりました。
色々な鉱石を、昔琉球と言われていたエリアを中心に集めてきては、それらを釉薬として使用しておりました。金子晴彦が幼少の頃、メガネのようにして遊んでいた牛乳瓶の底を焼き物の中に入れてとせがむので、恭雨は入れてみたそうです。
彼は焼成後にはただガラスがくっついているだけだろうと思っていたそうです。
しかし、透明だったガラスが薄いブルーに発色している事に気が付きました。
今では金属で色が発色する事はわかっておりますが、当時はだれもガラスと陶器の融合をする陶芸家が世界に存在していませんでした。
それは自然発色したガラスと陶器の融合に世界で初めて成功した瞬間でした。
それから6年ほどかけて商品化に成功、よろん焼窯元として誕生しました。

思い

1964年はじめて琉球の海を見ました。私が3歳の時です。真っ青なブルーと柔らかいグリーンの色がおりなす海、そして砂浜にでると燦燦と輝く太陽の下、真っ白な珊瑚でできた砂浜とどこまでも限りなく続く透明の美しい海を見たものです。また自分より大きなシャコ貝の上に乗り一寸法師のように遊んだ記憶が甦ります。その島は沖縄復帰前日本の最南端であったよろん島でした。

写真家だった父は、1960年頃極限まで貧困だった奄美列島の島民全体の生活が潤う方法を考えておりました。そこで、師匠であった土門拳先生と別れ、観光という光をこの島々全体に当てる為、全国で個展を行ったり、メディアに出したりしておりました。当時の国鉄のディスカバー ジャパンのよろん島の写真はすべて父の写真でした。また、波は必ず広がるものと考え、奄美列島で観光の波を起こせば、やがてこの波は琉球列島全体に広がってゆくという思いから奄美・沖縄観光振興という、たった一人の孤独な闘いが始まりました。

当時これといったお土産が奄美列島になく、昔、京都や関西の寺院仏閣で出会った天目茶碗がこの沖縄と同じ緯度にある中国の福建省・建窯で出来ていることを知り、文化的にも評価されている天目茶碗を観光産業のひとつの財産にしようと作ったのが石垣焼の前身のよろん焼でした。

私が4歳の時に父と出会った器の中には太陽の下、沖縄の海が燦燦と輝いておりました。それはひとり陸揚げされているサバニ(小舟)に座って燦燦と照りつく太陽の光を浴びた、人が誰もいない真っ白な砂浜とブルーの海の中を眺めている情景と同じでした。現在一般的となったガラスと陶器の融合は当時邪道といわれ作る方は皆無でしたが、写真家だった父は、この焼き物も次世代の沖縄の焼き物で良いのではと思ったそうで、ここからガラスと陶器の融合の試練が始まりました。
ガラスは1300度で伸びきり、陶器は100度近くまで、また水分も抜け縮じみ、収縮率の違いから当然割れることで、制作不可能と当時言われておりました。当然、失敗の焼き物の山が築かれるほど、両親と姉が苦労したのを小さい頃良く見ていました。その苦労の先に存在しているのが今の焼き物です。

時代は変わり、家族全員が残してくれたこのよろん焼の精神をこのまま終わらせてはいけない。名を世界へ広めなければという気持ちで、石垣焼として出発いたしました。民芸のよろん焼から美術工芸品として再出発した石垣焼は、名前は変りましたが、哲学と信念を引き継ぐものです。

私には子供がいません。この石垣焼が私の子供たちです。石垣焼とつけたのは琉球のどこかの地名をこの美しい焼き物に残さなければならないと言う使命を感じたからです。焼き物は大切に保管すれば200万年存続するそうです。人は感動した作品がどこで出来ているのか知りたいものです。それはついつい器の裏を見ることで、石垣という地名を見ることになります。そして文化の旅の始まりがスタートすればと考えております。これから例えば3,000年たってもこの美しい沖縄の海を見ていただくことで、日本へ興味を頂くために南の果ての石垣という地名を使用しました。この地名から世界の文化人がこの八重山へ、沖縄へそして日本へ来ていただくきっかけになればと願っております。エジプトのピラミッドのように私の子供達の石垣焼が日本のシンボルのひとつとなり、また石垣焼がメッセンジャーとなり世界へ羽ばたいてくれることを願い、一人でも多くの世界の人々に感動と安らぎを与えられたらと願っております。

夢はフランスからヨーロッパ全土へ、アラブ諸国、アフリカ、北アメリカ大陸、南アメリカ大陸とその中でご縁がある国と、どんどん夢を現実にするために歩んでいきます。

最後に、私はキラキラと輝く太陽の下に照らされるマリンブルーとエメラルドグリーンの壮大なパラノマの海に囲まれ住んでおります。
私にとってこのオアシスの海はすべてであり、生命の源です。また母の存在のようなものです。また緑に囲まれたこの島で、美しい花々や小鳥のさえずりなどすべてを与えてくれる自然は私にとって感謝そのものです。

私はこの自然の為に、また石垣焼窯元のギャラリーを訪問して下さる世界中からのお客様やまたいつも応援して下さる沖縄並び日本中の皆様にできる小さなご恩返しのつもりで、私はこの美しい海のすばらしさを世界のすべての人々に陶器を通じ発信することに残りの人生を捧げる事といたしました。石垣焼物語の次のページを皆様と育んでいければ幸いです。

表現

自然である海は365日同じ日はありません。
また自然は人間の造形物よりはるかに美しいものが存在し、それは360度に永遠に広がり点在し続け、全てを把握、表現する事は残念ながら不可能です。

しかし、人間は感動する生き物です。
そしてその感動を記憶に留める努力をします。
人によっては何気ない日々でも、自分にとっては宝物である感動体験を写真やCDに記憶するのではなく、自分の持つ感性のフィルターを通して記憶している陶器が石垣焼です。
それには日々感動した自然のテーマがいろんな石垣焼にちりばめられております。
ひとつひとつ真心を込め制作しております。ぜひ手にとってご覧いただければと思います。

石垣焼窯元の創立の目的

石垣焼窯元のある石垣島の地名、「石垣」をもっと世界のたくさんの人に知ってほしい。
また1964年に恭雨が発見したガラスと陶器の融合。粉末にした鉱石と透明のガラスを使用し、沖縄の海の色へ変化させたガラスと油滴天目が施された焼物を残す事。
この2つを目標に1999年に石垣焼の材料の鉱石が沢山とれるこの石垣島に石垣焼窯元を創立いたしました。
幸い陶器は200万年も存在する事ができ、私が伝えきることができないことを、メッセンジャーとして伝えてくれることができます。
そして石垣島を起点に日本を旅するきっかけになれば、本望であります。
またこの事が永遠に続く様、心ある美術館やコレクターの元へ作品が渡たり、それを見て下さった方々が幸せな日々を過ごすことが出来ればこの上ない喜びです。

ガラスと陶器の融合の難しさ

ガラスと陶器の融合は、収縮率の違いから昔は制作不可能な焼き物とされており、幻の器とされていました(ガラスが1300度で伸びきり、温度が下がるにつれて、ガラスは固まり固定します。陶器はほぼ100度近くまで収縮するので、ガラスやガラスに接着した陶器部分がガラスの割れと共に割れてしまいます)。
この技法で実際に食器制作を始めた1970年頃は、1尺皿が200枚で1枚しか成功せず、割れたお皿の山となっていた事を思い出します。

現在では成功率も少しずつ伸びてきました。
しかしながら油滴天目の質やガラスの発色など考えると極上品などは食器と言っても、現在でも希少と言えるでしょう。
またアート作品等は数百から1000個で1個などという作品も珍しくなく、非常に困難な技術に挑み続けております。中には人生で数個という作品も珍しくなく、もし気に入れば出会いの時に購入される事をお勧めいたします。
二度と出来ない場合が、窯変で制作する鉄油をベースにした私の作品には多々あるからです。

過去いろいろな所で、ガラスと陶磁器等の融合が試みられました。
割れてしまい実用的現実的ではなかったため、ガラスを焼き付ける下地は陶磁器の代わりに金属が主に使用されました。
また着色ガラスが装飾として陶器に焼き付けてある壺などは多数発見されておりますが、古代や中世時代の作品で食器として使用されたものはまだ発見された実物を目にした事がありません。
結局、その後透明釉を使ったタイルなどが主流になり、寺院などで広く使われるようになりました。
食器類も同じ歴史を歩むこととなりました。
この事からも先人達にとって難儀な焼物であった事がうかがえます。

ガラスと陶器の融合制作を可能にしたポイント

当時も鉛などガラスを軟化する方法はありましたが、健康に悪い影響がない事が第一条件である事を念頭に、あえて硬いガラスを使用しております。
沖縄の海の水の質感はとても素晴らしく、その透明度やグラデーションを表現するのはガラスしか考えられませんでした。何故なら透明釉を制作する方法は珪石を長石や木灰や石灰で溶かして作ります。そのような方法で制作したガラスの色は定着しますが、海の深さによって見える海の色の濃淡や色のグラデーション、そして海の色の持つ光に対する発色、この海が持っている生命力を表現することはできません。
制作は困難を極めました。粘土の選択、成型、陶器並びガラス焼成、釉薬の種類の選択及び硬さ、ガラスの選択等を考え、数千という失敗の末、石垣焼が成功しました。ガラスの焼成と陶器の焼成を行うため、窯焚きが1週間以上に及ぶなど、非常に時間と手間がかかる焼き物です。半世紀にわたり上記の点について改良を重ね、今も模索し続けております。

陶器とガラスも元は異素材への挑戦、これからも異素材への挑戦に挑みます

48年前、ガラスと陶器の融合は異色であり、非常に珍しい焼き物でした。人間は現状の生活や価値観を変えられる時、違和感を覚え、それに反発します。
しかし、一度理解され始めるとそれは感動へと変化していくものです。
また、その時に理解されない方でも、やがて一般に受入られ、有名人や有名レストランで使用されると、一変してその物が良く見えてくるものです。50年前はまだ磁器が世界中で主流であり、日本でも陶器や磁器が使用されていましたが、陶器とガラスの融合は皆無でした。今はタヒチやニューカレドニアそして沖縄等マリンブルーやエメラルドグリーンの海を見てそのような海が存在する事を知っている人は多く、テレビでも最高の画質で自分がビーチにいる様な錯覚をしてしまう程素晴らしい画質で南国の海を見る事が出来ます。
当時はガラスと陶器の融合を邪道などと思う人も多く、海の色自体を否定する人も多くいました。現在では金属から色々な色が発色する事は理解されておりますが、当時は鉱石からの発色など、発色する事自体嘘と言われる始末でした。石垣焼窯元ギャラリーを年間10万人の観光客が訪れますが、お部屋のインテリアや特別なお客さまへのテーブルウエアーとして購入して行く方が多くいて、嬉しい限りです。

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